私も同じ、と言われることの悲しさ
産業カウンセラー講座に通っていた頃、実技で、なぜか私、カウンセラー役としては禁じ手の「私もそういうことあったよ、私も同じだよ。」という応答をしてしまったことがあった。
そのことは、指導者に厳しく指摘され、その指摘を受けて、なぜか私はみんなの前で号泣してしまったのだった。
単に指摘が厳しかったからだけでなく、何かが私の心の奥の方を刺激したように感じて、なかなか泣き止むことができなかった。
それが何故だったのか、ちょっとだけ分かる気がするようになった。
母がその手をよく使うのだ。
先日も、「私、今ならやっと、大学に入るのになんの専攻に入るか分かる気がするよ。あの時は全然分からなかった。」というような話をしたら、すかさず「私も同じだよ。私なんて、やっと最近だよ。」というような感じ。
そう返されてしまうと、結局、私の話した話は、母の話に変わってしまう。
ずっと、そうされてきて、でも、それがどれだけ心を傷つけるのかには無自覚のまま、それが会話のセオリーみたいに私に染み付いているのかも、と。
だから、カウンセリングの実技の時の指導者の指摘は、私のセオリー=在り方を疑うものであり、私の心の傷も刺激するものだったから、あんなに泣いてしまったのかもしれない。
カウンセリングに行ってから、いろんなことを思う。
母のことばかりになってしまうんだけど、ここが入り口なのかな。
母のことばかりじゃなくなりたいんだけど、ここが入り口なら、通過するしかないのかな。
時間があまりない毎日だけど、書ける時に、思っていることを書けたらいいなと思う。