西の魔女みたいに

意思を持って積み重ねる日々の記録

「はい、でも」ゲームをやめる

カウンセラーさんにオススメされた『交流分析のすすめ』という本を読み終わりました。

 

 

交流分析のすすめ―人間関係に悩むあなたへ (日文選書)

交流分析のすすめ―人間関係に悩むあなたへ (日文選書)

 

 

その中で、「はい、でも」ゲームというのが紹介されていたのだけど、これは、私の妹が私たち(母と私)によく仕掛けて来るゲームだなと思いました。

 

「はい、でも」ゲームというのは、まず、「◯◯なんだけど、どうやったらいいと思う?」とか、そんな感じで、Aさんが意見を求める形式で始まります。

聞かれたBさんが「いいんじゃない?」など答えると、「でも、△△じゃないかな。。。」などとAさんから反論があります。

それに応じて、Bさんが「そんなことないよ。☆☆したらいいんじゃない?」と答えると、またまたBさんから、「いやいや、でもさ。。。」などと、延々と反論が続き、最後にはBさんは嫌になる、という結末。

 

これは、AさんがBさんの言うことなんか絶対に聞いてやるものかと実は(無意識に)思っていて、Bさんが無力感や無駄な時間を過ごした感じがするまで続けられるゲーム、らしい。

Aさんには、誰に何を言われても絶対に変わらない、あなたの言うことなんか絶対に聞かない、みたいな思いがある。

一方、Bさんの方にも、なんとかして相手を助けてあげなければ、と、Aさんより一段高い場所にいるような思いがあるところが問題。

それが相手に伝わってしまうところもあるから、このゲームが行われるんだということかな。

 

私は、バッチリBさんの特質を備えていて、妹のこともどうしようもないと思っているので、だから、いつもこのゲームにはまっていたんだなぁと気づきました。

母もそうだったけど、母は最近、それをやめたので、今は、妹の相手をする人がいなくなり、LINEも控えめになりました。

 

「はい、でも」ゲームに限らず、交流分析でいうゲームは、時間を埋めるために行われるものらしい。

確かに、人との交流の仕方が分からない私にとって、「はい、でも」ゲームでもないと、何を話していいのか分からず、寂しい気持ちがしてしまうのは事実。。。

虚しいような、物足りないような、そんな気持ちを、もっともっと心地よい、温かい交流で満たしていけるようになりたいな。